チャレンジャーの軌跡「”生きる”とは、森羅万象を味わい尽くす旅のことだ」

ラフティング

五分刈りの坊主頭に、ぶ厚い胸板、大きな声、笑顔……。現在30歳の彼が、ほんの2年前まで、将来を嘱望された銀行マンだったと知れば驚く人が多いかもしれない。”らしくない”、のだ。自他ともに認める銀行不適合人材。

在行時の評価は抜群で、多少の謙遜もあるだろうから、その分は割り引くべきだが、新卒で入った銀行に長く勤める「気持ち」はさらさらなかった。

あたかも登山のように、わき目を振らず、ひとつしかない”目標”を目ざして、ひたすら登り続けるキャリアもあれば、”出会い・運命”という水流に身を投じ大海を目指す、目の前に思いがけず現れる、逆巻く渦や突き出た岩を避けながらボートを操るラフティング(急流下り)のようなキャリアもある。氏の場合は、典型的な後者のタイプだ。今回、次回の2回にわたって、「ボート使いの名手」の軌跡を紹介したい。

東京で声楽家の長男として生まれ、幼稚園から高校まで学習院に通う。
教育熱心だが、自由放任の面もあるユニークな家庭で育った少年が、将来に対する一大決心をしたのは中学2年のときだった。

政治家になりたい発端は、当時世間をにぎわせていたFS-X(次期支援戦闘機)構想で、結果的に、大国アメリカが日本による純国産の戦闘機開発計画に待ったをかける形となった。

彼は言う。「当時のレーガン大統領自ら乗り出してきたのですが、会談の席で、彼の肩くらいしか身長のない竹下登首相がニコニコ笑っていた光景をテレビで観て、子ども心に、日本は独立国ではないのかという悔しさで一杯になった。それがきっかけで、政治家になって日本を変えたいと決心したのですが、政治家になるには、地盤・看板・カバン(資金)など困難な条件をクリアしなければならない。そこで、直接、政治家にならずとも、官僚になれれば政治の変革に手を貸すことができるのでは、と志望を外交官に変えました」

すばやい行動は彼の身上である。外交官になるための手引き書を購入し、読みふけった。発見があった。自分が内部進学する大学の卒業生には外交官試験の合格者が皆無に等しい……。多いのは、東大、一橋、早稲田、上智、慶應だ。一橋大学を狙おうか。翌日、また書店に出かけ、一橋の赤本を購入し、読みふけった。なんと中学2年の時である。それから毎年、少年の本棚に、外交官試験の問題集と一橋の赤本が1冊ずつ仲良く増えていった。

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高校に進学し、一浪後に望み通り、一橋大学法学部に入学する。中学・高校と打ち込んできた陸上の短距離走を大学でも続け、3年時に外交官試験に合格、そのまま大学は中退というコースを思い描いていた彼の計画は当初から変更を余儀なくされた。勉強一筋の生活がたたって体重が増え、短距離走向きではない体になっていたのだ。

“砲丸投げか、ハンマー投げなら”という陸上部の上級生の言葉を振り切り、キャンパスをとぼとぼ歩く失意の彼に、後ろから声がかかった。「アメリカンフットボールをやらないか」

この出会いに彼は身を投じる。水を得た魚のように、アメフトの虜になった。
ボールを使った格闘技のハードさは、短距離走の比ではない。フィジカル・トレーニングが終わった後は、ビデオを見ながら連日、深夜まで打ち合わせが続く。当然、授業に出る時間も体力も残っていなかった。こうして、大学生活4年間はアメフト一色に終わった。しかし、外交官になる夢を捨てたわけではない。大学 4年の12月まで、アメフト漬けの生活を続けた後、試験のための留年という道を選んだのだ。試験は翌年の6月だから、残された期間はわずか半年。

大学生活すべてを賭けても合格するかわからないという難関を、そんな短期間の勉強で突破できるかという不安はあったが、後にはひけない。あっという間に半年が過ぎた。へとへとになりながら、必死で試験を終えた後、はたと気づいた。試験に受からなかったら、卒業しても行く先がない!翌日から職探しを始めた。

PC
大手都市銀行の行員という安定した職をなげうち、彼が次の就職先として選んだのは、大手人材派遣会社や通信会社などが出資、全国数百箇所に独自のパソコン教室をFC展開する会社だった。
きっかけは大学時代にさかのぼる。留年して外交官試験にいそしんだ大学5年目の後半、彼は、IT系の人材派遣会社でアルバイトをしていた。バイトといっても派遣人材ではなく、社員としての営業職だった。その時、世話になった派遣会社の部長と銀行時代も親交を維持していた。その部長が、異動人事で、関連会社であるパソコン教室運営会社の社長に昇格、「一緒にやらないか」と彼を誘った時期と、彼が銀行を退行した時期が奇しくもほぼ一致していたのだ。

彼は早熟なパソコン少年であった。小学校2年の時から、コンピュータ雑誌を読み漁り、10歳の時、親からパソコンをはじめて買ってもらった。今のパソコンとはまるきり違うNECのPC6001という機種だった。彼は言う。「一種のパソコンおたくでしたから、業界動向など意識せずともすぐわかった。そうしたパソコンやITに関する知識と、銀行時代に多少なりとも培った金融や経営の知識を武器に、経営企画という部署で仕事をしました。他の部署では対応できない問題に駆り出される遊軍兼“社長の懐刀”のような存在でしたが、特に、全国に広がったフランチャイジーとのコミュニケーションをどう取るかといった課題に取り組みました」。
この会社に移って痛感したことがひとつあった。「銀行時代に、中小企業相手の営業も経験したんですが、その時、自分が経営の内情などわからずに表面の数字だけ見て、仮にも経営者に向かって、いかに生意気なことをぶっていたか、ということ。今から思えば、浅はかだったと思うのです。もし今、銀行の営業に出たら質量共にトップクラスの成績を取れる自信があります。企業の内側から経営を見る視点を磨くことができましたから、経営者と話す内容も当時とはかなり違うでしょうね」

一方、この会社に在籍中、彼の現在に連なる、もうひとつの“幹”が成長しはじめた。スポーツ選手のマネジメント会社への参画である。
「大学のアメフト時代の同期が、それまで勤めていた会社を辞めて、アメリカのマサチューセッツ大学に留学し、スポーツマネジメントの勉強をしていたのです。たまたま同じ大学で同じ内容を学んでいたリクルート出身の人と組んで、彼らが2001年の秋に立ち上げたのが、その会社。
アメリカで活動したい日本人スポーツ選手のエージェント業務、アメリカ仕込みの先進的なマネジメント手法を日本のリーグや球団にコンサルティングする業務、この2つを事業の柱においています。業務も軌道に乗ってきたので、“誰か手伝ってくれるヤツを探そう”という話になり、僕に白羽の矢が立った。
すごく興味のある話だったので、メンバー4人のうちのひとりとして、仕事を手伝うようになりました」

ビジネスマンやる気

同社に登録している選手には、日本人初の大学生メジャーリーガーとなった大家友和や、NBAの下部組織でプレイするバスケットボーラーの森下雄一郎などがいる。「彼らのウェブサイトの作成や維持管理などを、何とか時間をやり繰りして手伝ってました。当時在籍していた会社も早く帰社できるような状況ではなかったので、深夜になってアメリカと日本でチャットミーティングをはじめ、終わってみたら、夜が明けていて小鳥がチュンチュン、そのままシャワーを浴びて着替えて出勤ということもしばしばありました。でも、充実感で疲労などは全然感じませんでした。そんな時、営業に行った大手アパレルで、僕らの仕事を“面白い”と評価してくれたのが、当時、副社長を務めていた田沢さん(仮名)だったのです」。
総合商社から参加し、同社の怒涛の拡大を支えた人物だ。不思議とウマが合った。それから暇を見つけては田沢氏に会いに行き、実際の業務に結びつきそうな気配が漂ってきた矢先、田沢氏が大手アパレルを退くという衝撃的なニュースが入った。「どうしようかと思いました。新たな独立を考えていると聞き、一緒に仕事をしたい気持ちでいっぱいでした」

田沢氏が次にどんなビジネスに取り組むのか、その時点では明確ではなかったようだ。そして、彼が選択したのは、1ヵ月間、パソコン教室運営会社を休職することだった。「田沢さんについて色々な人に会ったり、小売店舗の見学に出かけたりしました。そうすると、“この店はどこが悪くて、それをどう直せばもっと売上げが伸びるか分かるか”などと訊いてくる、そして彼が実地でやってきた現場での事例を一つ一つ語ってくれるのです。ますます、一緒に働きたい気持ちが高まりました

1ヵ月がたって復職し、再びパソコン教室会社の経営企画の仕事に戻ったのだが、ある日、田沢氏から「飲食関係のビジネスを考えている」という連絡が来た。彼の行動はこの時もすばやく、しかも常人の発想を超えていた。なんと翌日から、もはやほとんど残されていないはずの空き時間をなんとか捻出し、スポット的ながら、自宅近くのマクドナルドで時給830円のバイトをはじめたのである。「飲食ビジネスといってもピンと来なかったので、とりあえず、外食産業ナンバー1のマックでバイトして、学べるものは学んでやろうと思ったのです。後日、田沢さんに会う機会があって、“どうしてる?”と聞かれたので、“マックでバイトしてます”と答えたら、彼も凍っていましたけどね(笑)」。
自分より10歳も年下の大学生に頭を下げ、教えを請う毎日。プライドを傷つけられるような面白くないこともあったはずだが、そんな素振りを微塵も見せないところがこの人の凄さかもしれない。「高校生のアルバイトをマネジメントする大変さがわかりましたね。彼らはお金を稼ぐことに切実ではないのですぐ欠勤してしまうのです。もうひとつは、作業の定型化・マニュアル化が極限まで進み、それによって、当時ハンバーガー1個65円という低価格が実現できているという仕組みを肌で学べたことですね」

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「飲食ビジネス!だったらマックでバイトだ」という行動力。外交官になることを決意した中学2年のときも、銀行に面接に行ったときも、存分に発揮された瞬発的行動力だ。猪突猛進と揶揄する人もいるかもしれない。しかし、目標を見つけたら躊躇なく肉迫する。この行動特性が、彼の最大の強みとなってきたのは確かなのだ。
結果として、田沢氏は飲食ビジネスに進まなかった。その替わり、まったく新しい業態の企業を立ち上げ、現在、彼はそこの社員として多忙な毎日を送っている。年末にこの話が来て、正月休み明け早々、パソコン教室運営会社の社長にこれまでの経緯を話し、退社したい旨を告げたら、「2度とないチャンスだから頑張って来い」と快く送り出してくれた。スポーツマネジメント会社の仕事も現在は休止。気合と根性で全力投球の日々を送っている。

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ここまで見てきたように、彼のキャリアは、決して落ち込むことがない、いつでも前を向く力によって支えられてきた。その駆動力はどこに由来しているのだろうか。彼はいう。「ひとつは、自分が死ぬまでに、どれだけ多くの経験 ― 見たり、聞いたり、知ったり、出会ったり - を積めるかに挑戦したいという気持ちが非常に強いのです。そう考えると何をやっても一瞬一瞬が自分の挑戦にかなう。そうした色々なことを経験できる手段が、「経営」だと思う。「経営」の中には、僕がまだ知らない事柄がたくさん詰まっている気がする。だから、僕は「経営」を一生の仕事にしたいと考えています。もうひとつは、『すべての物事はつながっている』という考え方です。田沢さんに会えたのも大学時代に打ち込んだアメフトが縁になっているし、そのアメフトも外交官になりたいと思って一橋に行かなかったら出会わなかったでしょう。
ちょっと大げさですが『世の中森羅万象を知りたい、体験したい』という欲求と、『物事すべてはつながっている』という考え。このふたつを結びつけると、自然に僕のような生き方になるのです」。
一度描いた夢を諦めず、何度、失敗しても挑戦する生き方はすばらしい。でも、目の前の課題に真正面から向き合い、その過程で次の新しい夢をつかんでいく生き方もまた素敵なのだ。
インタビュー日時:2008年12月1日