チャレンジャーの軌跡「12年かけて”銀行”という組織で学んだこと」

ビル外観
特殊印刷会社を営む両親のもとに生まれ、当時、大学4年だった青年も銀行が第一志望だった。
親類縁者にも経営者が多かった彼は、将来、企業経営に携わることを夢見ていた。
サラリーマンとして、ひとつの組織に人生を預ける気はさらさらなく、10年ほど銀行につとめ、幅広い視野と企業経営の基礎を身に着けようと考えていた。
結局、就職したのは大手銀行だった。
彼は語る。「この大手銀行に決めたのは、若手の頃から自由に仕事を任せてくれるような雰囲気が感じられたのと、大学のラグビー部の先輩がいなかったから(笑)。先輩がいると、しがらみにとらわれて辞めにくくなると思った。それと学生時代にラグビーで心身ともに限界までやり遂げた気持ちもあり、社会人ではラグビーをやるまいと考えていました。先輩から誘われると断れないですからね(笑)」

最初の配属先は、新しい融資先を開拓する新店舗だった。
この銀行は長期資金を企業に供給する目的で設立された為に、大企業取引が中心であったが、これら大企業に対する融資の減少が想定されるなか、この部隊は今後有望な中小企業を発掘する戦略組織であった。「珍しい?体育会系の馬力がありそうなヤツと思われたのでしょうか(笑)。」
若手は彼ひとりで、支店長自ら教育係となり、3か月間、マンツーマンでみっちり仕込んでくれた。「名刺を持ってひたすら配りまくるんだ。いわば特攻隊だな。どんな会社でも構わん。ただひとつの条件は、不動産以外の業種を狙うこと。それがお前自身の勉強にもなるはずだ」という支店長の言葉を受け、ひたすら候補先企業への飛び込みでの訪問営業をしまくり、足を棒にして歩き回る毎日が続いた。

データ

当時は大手銀行というブランドがあったこと、まだまだ景気は好況を呈しており資金需要が旺盛であったことから、比較的、簡単に新規候補先の経営者に会うことができた。数か月もたつと成果もではじめ、それと同時に、融資というビジネスの要諦も徐々に身についてきた。
当時、顧客として若者向け衣料の販売で急成長を遂げているA社があった。業績も右肩上がりで、株式公開も間近と噂され、財務諸表も非の打ち所がなかった。「実は私、かなり慎重なたちで、仕事に慣れるにつれ、融資先の経営状況を徹底的に調べるようになっていました。もうひとつ実行したのは、毎週欠かさず訪問しては、同じ内容の質問を違った角度から投げかけてみること。答えがブレる経営者は、どこかで嘘をついているわけですから、そういう企業への融資はやめるべきだと考えました。最後はやはり、人です」

A社の場合がまさにそれだった。表面上は優良企業だったが、社長の言動がどこかちぐはぐだった。思案のうえに、融資打ち切りの判断を下した。
彼に審査部がその理由を問いただす場面もあったが、ほどなく彼の判断の正しさが明らかになった。
数年後にA社が多額の負債を抱え倒産したのだ。
一方、同じ若者向け衣料販売業でも、上野のアメ横出自のB社には、無担保で融資した。経営者の人柄と言動、それに戦略もしっかりしていた。しかし、アパレル企業への無担保融資は、当時非常識の範疇にあった。彼は、「大丈夫か?」と不安を隠せない審査部の人間を、若者でにぎわう原宿の街に連れ出し、若者向け衣料のビジネスがどんな状態にあるかを実地で体感させ、あわせてB社の店の賑わいぶりを見せた。社へ帰る途中、担当者は明るい口調でつぶやいた。「これなら大丈夫だ」

旅館
こうした融資業務を3年間続けた後、彼は財形部に異動となり、2年間、そこに在籍した。
2年が過ぎ、異動願いを出すと聞き届けられ、今度は大手デベロッパー相手の融資を担当する部に異動となった。
当時、20代半ば過ぎだった彼は、ある大手のデベロッパーの担当になった。
一回の融資金額が100億円を軽く超える、大事な“お客さま”だった。

先方の担当者に「(そんな若い人をつけるとは)うちを舐めるのもいい加減にしてください」と彼の上司がすごまれたというから、よほど異例だったのだろう。“優秀だからという理由で選ばれたわけではない、よくあること”と彼は当時を謙虚に振り返るが、若くして重要クライアントを任されるくらいの実績が評価されていたのは確かだ。
結果的に、デベロッパーの担当者の言葉は正しかったかもしれない。
彼は、新たな取引方針をまとめた社内向けレポートで、そのデベロッパーへの融資を減額すべきだと書いてしまったのだ。

彼は言う。「その企業に、銀行の調達金利より低いレートで貸していたんですよ。レポートには、リスクに見合うリターンをきちんと取るべきだという当たり前のことを書いたまでなのです。海外向けには、ちゃんとそれを実行していたのですから。昔からの慣習とか、大口の顧客とか、そういう理由で存続しているビジネスは、必ず、たち行かなくなるはずだと思ったのです。上司に“ふざけるな”と言われて、減額は実行されませんでしたけどね」。
しかし、彼の考えが正しかった。
「土地の価格は上がり続ける、株価も暴落しない…。どうしてそう言い切れるのか、銀行の常識がほんとに不思議でした。それよりも、“時には常識を疑い、しかるべきリスクを取りながら、リターンを最大化することを考える”という考えを感覚的に当時からもっていたのです」。そのうち、大蔵省通達による不動産の融資規制がはじまり、土地も株も暴落、不良債権を抱えた銀行への世間の風当たりが強まり、以後、金融“冬の時代”が到来する。

2年半のデベロッパー営業を体験した後、突然、東京営業部への異動が言い渡された。そこで、特命担当したのが、静岡県の熱海にあるリゾート案件の“後始末”だった。数100億円もの資金をつぎ込んだが、バブル崩壊で返済の目途が立たなくなっており、その返済スキームをつくり実行するというプロジェクトだった。
「もともとのオーナーには半年で辞めてもらい、その後に新しい社長を送り込みました。私は、どうやって再建させるかを現場の声を聞きながら考えたのです。スキームを作るうえで困ったのは、私は経済学部出身で、法律の知識が皆無だったこと。契約書ひとつ満足に作れませんでした。そんな中、著名な弁護士とタッグを組んで仕事に取り組み、OJTで、足りない知識と経験をたくさん身につけることができました」。

そのうち、銀行本体の雲行きも怪しくなった。
担当していたリゾート案件も早急に売却しなければならなかった。弁護士との打ち合わせ、裁判所や債権者との協議、売却先の選定、売却スキームの考案、記者会見の設定…。やることは山ほどあったが、それらをひとつひとつ潰していった。

何度も考え、相談し、また練り直す。細かい業務も多く、一つのミスが命取りになる、胃の痛い日が続いた。モチベーションを支えたのはそこで働いていた従業員の顔。存続させる道を必死で探った。時には銀行側とぶつかる場面もあったが、結果的に、まだまだ可能性に満ちたリゾート案件をまったく新しいスポンサーのもとに移管することができた。

ゴルフ場

このリゾート案件の処理で培った経験を生かして、彼が次に取り組んだのが、企業の合併・買収(M&A)業務だった。なかでも多く手がけたのが、客足の落ちたゴルフ場やホテル、それに旅館だった。こうした案件を扱う場合、ひとつの物件を右から左に流す、ただの“仲介屋”なら何社もある。しかし、彼の場合は違った。

何10万坪もあるゴルフ場の場合、地権関係が複雑で、それこそ所有者が何100にものぼることもある。それらを丁寧にほぐし、新しい資本を入れ、サービスを一新、みごと再生へと導く。いまや銀行本体にではなく、“彼個人にお願いしたい”という趣旨でいくつかの案件が持ち込まれるようになっていた。

そして彼は、12年あまり在籍した銀行を退社した。もともと10年で辞めるつもりだったので未練はまったくなかった。社内でいつも、「自分が辞めた後のことを考えて仕事をしろ」と後輩に口酸っぱく言い続けてきたが、「まさか言った本人が本当に有言実行するとは思わなかった」と周囲が口々に話したという。

「誰もが、儲からないと思っている。でも、みんなが駄目だ、駄目だというときは、価格は暴落しているわけですから、“買い”の時期なんです」。

退社後ほどなく、彼はゴルフ場の売買と再生を手がける会社を立ち上げ、代表取締役になった。持ち込み案件は引きも切らない。

「多くの日本のゴルフ場は、普通の人が日常、気軽にプレーできる環境と料金設定になっていません。“市場を無視したものは必ず是正される”というのは私の信念。新しい挑戦を続けるつもりです」。

リスクを取らない組織の代表格、銀行に別れを告げ、日々、リスクと向き合う道を選択した彼。人を見抜き、常識を疑う。危機を回避させ、資産価値を正当に評価する。

リスクを極力、回避してきた組織で、彼が最も学んだのは、「リスクとは何か」ということだったかもしれない。

インタビュー日時:2009年1月29日